コントレックスとコンプレックス 夜空とノイズ

明確なコンプレックスを自覚している人間は普通の人間よりもよっぽど強固に、複雑に構成されていると周囲の人と芸術家たちを見ていて思います。

それが五感のようなものから身体的なもの精神構造に至るまで、様々ありますが自己理解が結局の答えではあるのではないのでしょうか。目立つ欠点はその人の個性になりえるのですから。言ってしまえばできない才能です。共感覚がギフテッドとしてあるように、臭いに疎くなってしまうのも逆才能です。あれです、途中までしか読んでないですけど、めだかボックスの過負荷的なことを言いたいのです。

 

ここまで自分のコンプレックス観に近いものを語ってきましたが言いたいのはここからです。

そも僕にはコンプレックスがありませんでした。人生自体を拙者が運転者と言えることに気付いたのは、去年の9月くらいでした。成人する一歩手前まで、オートマチック車にさえ乗らず、自動運転に任せてきました。勿論、レールに乗らない人生なんて懲り懲りだ、なんて言ってる作品なんて当たり前のように見てきましたが、作品と自己は殆ど区別することで生きていたので影響されるはずもなかったのです。

自分に向き合わなければ、他人とも真面目に向き合わないので頭を狂わせるような自己と他人の比較は行いません。そうしていると、相手からは居やすい相手として扱われ、僕はそのままで良いと思っていくのです。

別にこのまま流されることも可能なのだったのです。

やりたいことをやり切ってしまった僕は、ほとんど家に籠っていたので他人を見ることはしませんでした。それでも生きているので。

 

独りでいるときに自分を見つけました。やりたいことではなく、自分がいることに気付きました。

こんなこと中学生で終わらせるべきなんでしょうが。

そうしていると、夜空の星が見えないことに気付きました。その代わりに、今の時代にそぐわない深夜3時のテレビのノイズが夜空に照射されていました。

ちゃんと星空を見れていたと覚えているのは小学2年生のときまでです。

多分ここまでの間、意識しなければ地面を見ていたのでしょう。

夜の間、目隠しされている僕は恥ずかしさに苛まれるようになりました。

仄暗い隣人が語る、夜の美しさはネオン街のゴミ箱の中とそう変わらないので。

僕も彼らの言語を真似をすることで、輪に入っていたのですから。

 

今日のバイトの帰り、ノエジーポエトリーリーディングを聴いていると目隠しされていることで感情と恥がはじけ飛び、耳から脳への音波が盲というアンプで感情の増幅が起きたことを確認しました。

 

電波的日記になりました。